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大阪地方裁判所 昭和56年(ワ)8039号 判決

原告

三国良一

右訴訟代理人弁護士

豊川義明

橋本二三夫

被告

太洋興業株式会社

右代表者代表取締役

安里隆裕

右訴訟代理人弁護士

太田隆徳

主文

1  被告は、原告に対し、金七七六万六六六六円、及び、これに対する昭和五六年五月一日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、これを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

4  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金一四〇〇万円及びこれに対する昭和五六年五月一日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和二一年七月、被告会社の代表者安里隆裕の亡父安里太次に雇用され、同人が経営していた「玉川劇場」に勤務し、以来、昭和三二年二月一九日に右安里太次が設立し、その代表者となった被告会社の従業員として引き続き勤務し、昭和五六年四月二四日、被告会社を退職した。

2  退職金請求権の発生

(一) 被告会社には昭和三二年七月一日実施の就業規則(以下、本件就業規則という)があり、これの退職金規定(以下、本件退職金規定という)によれば、原告は、以下のとおりの退職金額の退職金請求権を有する。

すなわち、本件退職金規定によれば、退職金額は、基本給月額に勤続年数とそれに対応する支給率とを乗じたものであるところ、これを原告にあてはめると、原告の退職時の基本給月額は二〇万円であり、勤続年数は昭和二一年七月から同五六年四月二四日までの三五年であり、そして、勤続三五年の支給率は、その各一年につき基本給の二か月分であるから、原告の退職金額は左のとおり一四〇〇万円となる。

二〇万円×三五×二=一四〇〇万円

(二) 仮に、本件退職金規定がその効力を喪失しているとしても、本件退職金規定の内容は、原告と被告会社との間の労働契約の内容となっていたものというべきであるから、原告は、被告会社との間の労働契約に基づき、本件退職金規定により算定した前記額の退職金を請求しうる。

3  よって、原告は被告会社に対し、本件就業規則又は労働契約に基づき、退職金一四〇〇万円と、これに対する退職金の支払日以降である昭和五六年五月一日から右完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1のうち、原告が昭和二一年頃安里太次に雇用されて玉川劇場で勤務したこと、被告会社が昭和三二年二月一九日に設立されたこと、原告は被告会社設立当初より被告会社の従業員であったこと、原告は昭和五四年四月二四日に被告会社を退職したことは認め、引き続き被告会社の従業員として勤務したとの点は否認する。

2  同2の(一)のうち、原告の退職時の基本給月額が二〇万円であったことは認め、原告の勤続年数、原告の主張の退職金の算出方法、本件就業規則の成立、内容及びその適用は争う。

同2の(二)は争う。

3  同3は争う。

三  被告の主張

1  本件就業規則は無効なものである。

被告会社は、昭和三二年二月一九日に設立されたものであるが、労働基準法により就業規則の作成と監督官署へのその届出が義務付けられていたので、その形式を整えるため本件就業規則が作成、届出されたに過ぎないものである。本件就業規則は、被告会社の従業員でない鈴木賢司郎が文案を作成し、岸某なる者が筆写して作成したものであるが、その内容について、当時の被告会社の代表者安里太次の承認を得ないまま何者かが勝手に西野田労働基準監督署に届出たものであり、また、右作成に際して、労基法九〇条が要求する労働者の過半数を代表する者の意見を聴取していないし(なお、西野田労働基準監督署に届出された本件就業規則には従業員代表として訴外浅井宏祐名義の意見書が添付されているが、これは、右浅井が原告に頼まれるままに署名したに過ぎず、同人が従業員の過半数を代表する者となっていた訳ではない)、労基法一〇六条所定の本件就業規則を労働者に周知させる手続も一切とられていない。さらに、本件就業規則を記載した書面も被告会社に保管されていなかったし、昭和四三年頃被告会社の代表者となった現代表者の安里隆裕も本件就業規則の存在を全く知らなかったものである。従って、被告会社の従業員の多くの者は、本件就業規則の存在をこれまで全く知らなかったし、また、被告会社も従業員に対し本件就業規則の一部である本件退職金規定を適用して退職金を支給したことは今迄に一度もなかったし、そのため、税務上も退職引当金の積立を行ってこなかったものであって、本件就業規則は当然に無効である。

2  被告会社は、代表者の安里太次の個人経営の時代から引き続き映画館での映画興行等を主な営業内容としていたが、昭和三六年頃を最盛期として映画館の経営は斜陽産業化してゆき、被告会社においても昭和三八年から同四三年にかけて映画館を次々に改装してスーパーマーケットやナイトサロン等の他の業種に転業していった。ところで、本件就業規則は被告会社の経営する常設映画館「玉川シネマ会館」の従業員の就業に関する事項を規定対象とするところ、右のとおり被告会社は、昭和三八年から映画館を改装して他の業種に転業してゆき、そして、昭和四三年に右玉川シネマ会館を改装して「グランドサロン玉川」として転業した後は、本件就業規則が規定対象とする映画館が存しなくなったのであるから、本件就業規則は、その効力を喪失したものというべきである。

3  被告会社は、前述のとおりこれまで本件退職金規定を適用したことが全くなく、退職金の支給についてはその都度退職従業員と退職金について交渉のうえ、適宜その支給額を決定してきたものであり、これが被告会社において慣行化しており、本件退職金規定は既に死文化していて失効している。

4  原告は、被告会社設立当初より被告会社の経営に関与し、長年被告会社においては「常務取締役」等と呼ばれて従業員中の首位の地位にあって、他の従業員を指揮監督する立場にあったものであり、また、原告は、その家族共共他の従業員に比べて経済的にも優遇されてきた。そして、原告は、退職従業員の退職金額決定につき、常務取締役の立場で退職従業員と退職金支給について交渉し、その都度適切な支給額を決めて被告会社の代表者の決裁を得てきたものであり、これが退職金支給の慣行となっているものである。従って、原告としても退職金請求については、原告自身が形成してきた右慣行を尊重して被告会社と話し合い適正な額の退職金の支給を受けるべきである。加えて、原告が本件就業規則の存在を知っていたとするなら、原告は、従業員の首位にある者としてこれを他の従業員に周知させる方法をとり、また、右のとおり退職従業員と退職金支給について交渉するにつき本件退職金規定について説明し、公正な交渉をすすめるべき立場にあったものというべきである。しかるに原告は、これを怠り、他のすべての従業員に本件退職金規定の適用を排除しながら、一人自分のみその適用を主張して退職金を請求するのは、信義誠実の原則に反し許されないものというべきである。

5  原告の退職金額について

被告会社が設立されたのは昭和三二年二月一九日であるから、原告の退職金計算の基礎となる原告の勤続年数計算の始期は、右昭和三二年二月一九日からとすべきである。また、原告は、昭和三八年四月一日頃被告会社を退職し、同五〇年三月一日までの間、訴外太成興業株式会社において勤務し、同五〇年三月二日、被告会社に再就職したものであるから、原告が訴外会社に勤務していた右期間約一二年は、原告の被告会社における勤続年数から除外すべきである。なお、原告は、訴外会社を退職する際、訴外会社に対し退職金の請求をしたが、結局決着がつかずに未支給となっているもので、本来訴外会社在職期間に対する退職金は、訴外会社が支払うべきものであり、被告会社が支払うべき義務はない。そうすると、右昭和三二年二月一九日から原告が被告会社を退職した昭和五六年四月二五日までを原告の勤続年数(但し、右のとおり昭和三八年四月一日から同五〇年三月三一日までの期間は除く)としてこれに本件退職金規定を適用して原告の退職金額を計算すると、二九五万八三三三円となる(昭和三二年二月一九日から同三四年二月一八日までの分は、〇円×二(年)、昭和三四年二月一八日から同三七年二月一七日までの分は、二〇万円×三(年)、昭和三七年二月一八日から同三八年三月三一日までの分は、二〇万円×一・五×(年)、昭和五〇年三月二日から同五四年三月一日までの分は、二〇万円×一・五×四(年)、昭和五四年三月二日から同五六年四月二五日までの分は、二〇万円×二×(年))。

四  被告の主張に対する原告の認否、反論

1  被告会社主張1のうち、被告会社が昭和三二年二月一九日に設立されたこと、本件就業規則は、被告会社設立に際して、鈴木賢司郎が文案を作成し、被告会社の従業員岸某がこれを筆写して作成し、労働基準監督署に届出られたものであることは認め、その余は争う。

本件就業規則は、当時の被告会社代表者安里太次の意思に基づき真正に作成されたものであり、また、その作成当時在籍していた従業員は、本件就業規則の内容を知っていたし、昭和五四年九月に被告会社の事務所が移転した際に本件就業規則の副本が紛失するまでは、被告会社事務所のガラス張りの戸棚の中に備えられていて、従業員がいつでも閲覧し得る状態にあったものである。従って、本件就業規則は有効なものであり、仮に被告会社の現代表者が本件就業規則の存在を知らないとしても、何らその効力に消長をきたすものではない。

2  同2の主張は争う。

就業規則制定後に当該就業規則が規定する企業の業種や業務内容に変更があった場合は、就業規則を変更して就業規則の内容を企業の実体に適合するようにすべきところ、被告会社はこれを怠り、本件就業規則に規定する被告会社の業種や業務内容のいくつかに変更があったからとして本件就業規則の適用を排除しようとするものであって、到底許されないものである。

3  同3の主張は争う。

就業規則に抵触し、しかも労働者の労働条件につき不利益な内容となる労働慣行が存在したとしても、労働者が就業規則に規定する通りの労働条件の実行を要求した場合には、労基法九三条の規定の趣旨からして就業規則の規定がそれと抵触する労働慣行に優先して適用せられるべきであり、従って、本件就業規則の一部である本件退職金規定は、被告会社主張の退職金支給に関する慣行に優先して適用されるべきである。

4  同4の主張はすべて争う。

原告は被告会社の役員ではないし、常務と呼ばれたのは、実質は営業部長の肩書の代わりであった。かえって、被告会社は同族が実権を握った会社であり、原告の「常務」とは名ばかりであった。また、原告が他の従業員に比べ経済的に優遇されていたこともない。さらに、原告は、退職従業員と退職金について交渉したことは全くなく、安里太次が生存中は同人が、その後は監査役大城一郎、現代表者の安里隆裕、営業部長福井高一が、原告に何らの相談もないまま退職従業員と交渉して決済してきたものであり、原告は一切関与させられなかったものである。

5  同5のうち、原告が昭和三八年から同四九年までの間訴外太成興業株式会社において就労したことは認め、その余の点はいずれも争う。

原告が被告会社の設立前に安里太次に雇用されて就労していた期間については退職金の清算がなされておらず、しかも被告会社は実質は安里太次の個人経営であって、営業の内容も被告会社設立前後を通じて変らないのであるから、右期間については、原告の退職金計算の基礎となる原告の勤続年数に算入すべきである。

また、原告の右訴外会社における就労期間についても原告の勤続年数に算入すべきである。すなわち、原告は、安里太次から訴外会社に手伝いにいってくれといわれて形式的には在籍出向のような形をとったものであり、また、訴外会社は実質的には被告会社と同じく安里太次の個人会社であって、右原告の出向は安里太次のオーナーの企業間のものに過ぎないし、右出向期間についての退職金の清算もされていない以上、原告の右訴外会社における就労期間についても原告の勤続年数に算入すべきものであり、原告と被告会社代表者との間で、その旨の約束もなされている。

次に、退職金計算の方法であるが、本件退職金規定の附表に記載の「―――の分」の意味は、通常の退職金規定の通り、勤続期間が長くなるに従って支給率が変ることを示したものであって、決して同一人について勤続期間を分割して退職金額を計算する趣旨ではない。仮に勤続期間を分割して計算する趣旨とすると、三年未満の勤続期間は一切支給の算定対象から外れることになり不合理である。

第三証拠

証拠関係は、本件記録中、書証目録及び証人等目録に記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  被告会社は昭和三二年二月一九日に設立されたこと、原告は被告会社設立当初より被告会社の従業員であり、昭和五六年四月二四日、被告会社を退職したことは当事者間に争いがない。

二  原告の退職金請求権の発生

原告は、本件就業規則中の本件退職金規定に基づき退職金を請求し、被告は、その成立、効力を争うので、本件就業規則の成立、効力について判断する。

1  本件就業規則の成立について

(証拠略)を総合すると、次の事実が認められる。

訴外亡安里太次は、昭和二一年三月頃、福島区玉川町に玉川劇場を開いて芝居興行を始め、その後映画興行を行うようになり、昭和三二年二月一九日、映画興行等を目的とする被告会社を設立し、自らその代表取締役となって映画館である玉川シネマ会館を開設した。ところで、右安里太次は、被告会社設立に伴い、労働基準法により義務付けられている就業規則の作成とその行政官庁への届出をなす必要があったところから、同じく同人が経営する九条松竹の従業員であった鈴木に被告会社の就業規則の文案作成を依頼した。そこで、これを受けた鈴木は、就業規則の原案を作成し、被告会社の従業員岸某が右原案を基に本件就業規則を作成した(これが甲第一号証である)。そして、昭和三二年四月一日、これを被告会社の従業員浅井宏祐に示して、同人に被告会社従業員の代表とする形で本件就業規則に対する労基法八九条所定の労働者の代表の意見書に押捺してもらい、この意見書と被告会社の社印と被告会社代表者安里太次名義の印を押捺した就業規則届出書を本件就業規則に添付して、昭和三二年六月一〇日、これを西野田労働基準監督署に届出(右事実からすると、甲第一号証が真正に作成されたものであることは明らかである)、その後昭和三三年一二月頃、本件就業規則の一部を変更し、同年一二月二五日、前記労働基準監督署へ変更の届出をした。そして、本件就業規則の副本は被告会社の事務所内に保管されていたが、昭和五四年九月に事務所を移転する際、紛失してしまった。

以上の事実が認められ、(証拠判断略)、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定事実によれば、被告会社が本件就業規則の規定内容をどこまで実行する意思があったかどうかはともかくとして、本件就業規則及びその一部である本件退職金規定は、被告会社の意思に基づき制定されたものであることは明らかである。

2  本件退職金規定の効力について

被告は、本件退職金規定の制定は被告会社の労働者の過半数を代表する労働者の意見を聴かずになされたもので労働基準法九〇条一項に違反し、また、本件退職金規定は被告会社の意思に基づかずに行政官庁へ届出られたものであって同法八九条に違反し、さらに、同法一〇六条一項に規定する就業規則の労働者への周知の手続が採られていないから、本件退職金規定は無効である旨主張する。しかしながら、労基法九〇条一項の規定する労働者の意見の聴取義務、同法八九条の規定する就業規則の行政官庁への届出義務、及び同法一〇六条一項の就業規則の周知手続の履 (ママ)義務は、いずれも就業規則の効力要件ではないものと解すべきであり、就業規則は、使用者において、その事業場の労働者に対し就業規則の存在及び内容を周知せしめ得るに足りる適宜な方法により告知せられた時は、当該事業場の労働者が就業規則の存在及び内容を現実に知っていると否とにかかわらず、就業規則として妥当し関係当事者を一般的に拘束する効力を生ずるに至るものと解せられる。

これを本件についてみるに、前記認定のとおり、本件就業規則は既に従業員側にその意見を求めるため提示され、且つその意見書が付せられて行政官庁に届出られたものであるから、本件就業規則の存在及び内容が従業員に告知せられたものというべきであり、従って、本件就業規則及びその一部である本件退職金規定は、有効に成立したものというべきである。

三  もっとも、

1  被告は、本件就業規則がその対象事業場とする映画館玉川シネマ会館が昭和四三年に改装されて他業種のグランドサロン玉川となったので、その時点で本件就業規則はその効力を喪失した旨主張する。

ところで、当該就業規則が適用される事業場の業種や営業内容が就業規則制定後に変更された場合、当該就業規則中当初の業種や営業内容に特有の労働条件等(例えば始業及び終業の時刻、勤務形態、休憩時間、休日等)について規定する部分は、業種等の変更に伴いその効力を喪失することがあると考えられるが、しかし、その他の労働条件に関する規定部分については業種等の変更があったからといって当然にその効力を喪失するものとは解せられない。そして、退職金は、当該業種に特有なものとはいえず、また、労働契約の要素をなす基本的労働条件の一つであるから、就業規則中の退職金に関する規定部分は、業種等の変更があったからといって当然にその効力を喪失するものとは到底考えられない。

従って、被告会社が主張するように本件就業規則がその対象事業場とする映画館の玉川シネマ会館が昭和四三年に改装されて他の業種のグランドサロン玉川となったとしても、本件就業規則中の本件退職金規定は、当然にはその効力を喪失したものとはいえず、右被告の主張は失当である。

2  次に、被告は、本件退職金規定を適用したことがなく、退職金支給についてはその都度退職従業員と交渉して適宜その額を決定してきたものであり、これが慣行となっているから本件退職金規定は失効した旨主張する。

なるほど、(人証略)によれば、被告会社においては、退職金支給につき、本件退職金規定所定の支給基準に依らず、その都度、前代表者の安里太次や監査役の大城一郎、現代表者、営業部長なりが、当該退職従業員と交渉のうえ、その勤続年数、被告会社への貢献度、前例、被告会社の経営状態等を斟酌して支給額を決定してきたが、これに対し、退職従業員から本件退職金規定の基準による支給を求められたことがなかったことが認められる。

しかしながら、就業規則が有効に作成され、届出義務が履行された以上、その後就業規則の基本的労働条件条項と現実に事業場で行われている基本的労働条件との間に日時の経過とともにくい違いが生じたとしても、現実の労働条件が就業規則所定のそれを下回るものであるときは、就業規則の変更の手続を踏まないかぎり、くい違いを生じてから相当の期間を経過していたとしても、労働者側はいつでも就業規則所定の労働条件の実施を主張し得るものと解すべきである。

これを本件についてみるに、本件就業規則は、既に判示したとおり有効に成立し、行政官庁に届出られているのであるから、前示のとおり、被告会社が退職金支給について本件退職金規定に依らずに当該退職従業員と交渉のうえ適宜その支給金額を決定して支給してきたとしても、この事実をもって直ちに本件就業規則のうち本件退職金規定部分がその効力を喪失したものということはできない。

よって、右被告の主張も失当である。

3  さらに、被告は、縷縷事情を述べて原告が本件退職金規定の適用を主張して退職金を請求することは、信義誠実の原則に反して許されない旨主張する。

(人証略)によれば、原告は、被告会社の前代表者安里太次に重用され、被告会社設立当初より支配人あるいは総支配人と呼ばれ、また、昭和五〇年頃以降には常務と呼ばれていて、被告会社の従業員中その首位にあり、従業員を管理、監督する立場にあったこと、原告は、右安里太次から同人所有の土地を無償で借り受け、家屋を建ててその家族と共に居住していたことが認められる。

しかし、前掲各証拠によれば、被告会社は、前代表者安里太次一族のワンマン企業で、従業員中首位にあったとはいえ原告は経営に参画していたわけでも従業員の採用や退職など人事を担当していたわけでもないし、また、後記のとおり昭和三八年四月から同四九年一〇月頃までの間は、被告会社の業務から離れて訴外大成興業株式会社で勤務していたものであり、その後再び被告会社にて勤務するようになってからも、常務と呼ばれるようになったものの勿論役員ではなく、その担当業務は主に経理と渉外関係であって、人事関係を関与担当したことも退職従業員と退職金の交渉をしたり支給退職金額の決定に関与したりしたこともないことが認められる。また、原告が安里太次から土地を無償で借り受けていたこと前記のとおりであるが、原告以外の従業員の中にも右程度の便宜を受けている者は存するし、他に原告あるいはその家族が他の従業員に比べて格別経済的に優遇されていたことを認めるに足りる証拠もない。さらに、そもそも就業規則の制定や改廃は、重要な経営事項で、使用者たる者は、従業員の進言の有無にかかわりなく当然十分な関心をもってその検討をすべき事柄である。従って、原告が、従業員中首位の地位にあったうえ長年被告会社に勤務しその内情に通じ、また本件就業規則の存在も知っていたことなどから、原告には被告会社の現状に適合するよう本件就業規則の改正を進言するなりして被告会社代表者を補佐すべき職責があって、原告が右職責を十分に果さなかったとしても、このことから直ちに原告が本件退職金規定に基づき退職金の支払を求めることが、信義誠実の原則に反し許されないものとまでは到底いえず、他に、右被告の主張を認めるに足りる証拠はない。

よって、右被告の主張も失当である。

四  原告の退職金の計算

1  既に説示したとおり、本件退職金規定は効力を有し、原告は、被告会社に対し、本件退職金規定に基づき所定の退職金の支払を請求し得るものというべきところ、前掲甲第一号証、弁論の全趣旨によれば、本件退職金規定に基づく退職金額は、退職時の基本給月額に勤務年数とそれに対応する支給率を乗じたものであることが認められ、これに反する証拠はない。

2  原告の被告会社退職時における基本給月額が二〇万円であったことは当事者間に争いがない。

3  原告の勤続年数

(一)  原告は、昭和三二年二月一九日の被告会社設立当初より被告会社の従業員であり、昭和五六年四月二四日、被告会社を退職したこと前記のとおりである。

(二)  ところで、原告は、退職金算定の基礎となる勤続期間につき、被告会社設立以前の安里太次に雇用されていた期間も右勤続期間に算入すべきである旨主張するので検討するに、前掲甲第一号証によれば、本件退職金規定は、退職金算定の基礎となる勤続期間について、「退職金は勤続満三年以上の従業員に対して退職の際支給する。」と規定するのみで、被告会社設立前の安里太次に雇用されていた期間につきどのように取り扱うか触れるところがないし、また、安里太次に雇用されていた期間も右勤続期間に含まれるとする趣旨の労働慣行なり取り扱い、あるいは労使間の合意があったと認めるに足りる証拠はなく、さらに、被告会社設立以前において安里太次がその雇用する従業員に対し退職金支給の約束をしたり、退職金を支給したりしていたと認めるに足りる証拠もなく、他に原告が安里太次に雇用されていた期間をも含めて本件退職金算定の基礎となる勤続期間とすべしとすることを肯認させるような事情や証拠も見当らない(なお、〈証拠略〉によれば、被告会社は、原告に対し原告が被告会社設立以前の安里太次に雇用されていた期間も含めた形で永年勤続の表彰をしていることが認められ、また、前記認定のとおり被告会社は、その設立以前安里太次が経営していた映画館の経営等を目的とし、その実体も安里太次一族の個人会社であるが、しかし、これらのことから直ちに安里太次に雇用されていた期間も右勤続期間に含まれるべきであるとは言い得ない)。

してみると、右原告の主張は理由がない。

(三)  次に、被告は、原告は昭和三八年四月一日頃被告会社を退職し、同五〇年三月二日に被告会社に再就職したものであるから、右の間については、被告会社における勤続年数から除外すべきである旨主張するので検討する。

(証拠略)によれば、原告は、昭和三八年四月頃、被告会社の前代表者安里太次から同人が経営する訴外太成興業株式会社に手伝いにいってくれと頼まれ、その頃から昭和四九年九月頃に右安里太次が死去するまで右訴外会社に勤務し、その後再び被告会社で勤務するようになったこと、原告の健康保険・厚生年金保険上の事業主が、昭和四七年五月に、それまでの被告会社から訴外会社に変わり、その後昭和五〇年三月、同年二月訴外会社退職を原因として、右保険の被保険者資格を喪失していることが認められる。

しかしながら、原告が昭和三八年四月頃被告会社を退職したとの事実を証する労働者名簿、退職届、その他原告と被告会社との雇用契約を合意解約する旨の書面等がこれまでに作成されたとの事実を認め得る証拠は何らないし、また、原告の右健康保険・厚生年金保険上の事業主が変更されたのは右のとおり原告が訴外会社にて勤務するようになってから約一〇年を経過した後のことであるうえ、原告本人尋問の結果によれば、右事業主の変更手続がなされたのは、当時被告会社において保険金の掛金の滞納が多く取り消される虞れがあったので、原告の希望により事業主変更の手続がとられたものであり、また、原告は訴外会社で勤務するようになってから後も昭和四七年頃までは被告会社から給料の支給を受けていたものであることが認められ、これらの事実に徴すると、原告が昭和三八年四月頃から訴外会社で勤務するようになり、その後右のとおり保険上の事業主の変更手続がなされたからといって、原告が昭和三八年四月頃被告会社を退職したと推認することはできず、他に右被告の主張を認めるに足りる証拠はない。

却って、原告本人尋問の結果によれば、原告は、安里太次に依頼されて、被告会社に在籍したまま、いわゆる在籍出向の形で昭和三八年四月頃から被告会社の関連企業である訴外会社で勤務するようになり、その後安里太次が昭和四九年九月に死去した関係でその頃被告会社に復職したものであることが認められる。

ところで、前掲甲第一号証によれば、本件退職金規定は、在籍出向の期間を退職金算定の基礎となる勤務年数から除外する旨規定していないし、また、同趣旨の労使間の合意や労働慣行の存在を窺わせるような証拠もないうえ、原告本人尋問の結果によれば、原告は訴外会社から退職金の支給を受けていないことが認められる。そして、これらの諸事情を勘案すると、原告が訴外会社で勤務した右期間も本件退職金算定の基礎となる勤続年数に算入するのが相当である。

(四)  以上のとおりとすると、本件退職金算定の基礎となる原告の勤続年数は、被告会社が設立された昭和三二年二月一九日から原告が退職した昭和五六年四月二四日までの二四年二か月ということになる。

4  そこで、本件退職金規定を適用して原告の退職金額を計算するに、原告の退職時の基本給月額は二〇万円であり、勤続年数は二四年二か月であって、そして、前掲甲第一号証、弁論の全趣旨によれば、本件退職金規定の三条及び同規定の附表が、退職金の支給率につき、勤続三年から五年までの期間の分については各一年につき基本給月額の一か月分、勤続五年から一〇年までの期間の分については各一年につき基本給月額の一・五か月分、勤続一〇年以上の期間の分については各一年につき基本給月額の二か月分と規定していることが認められるから、原告の退職金は、七七六万六六六六円(二〇万円×三×一+二〇万円×五×一・五+二〇万円××二)となる。

なお、原告は、本件退職金規定の右附表に規定する勤続期間と支給率との関係につき、勤続期間を分割して退職金額を計算する趣旨のものではなく、原告は勤続二〇年以上であるから原告の全勤続期間について各一年につき基本給月額の二か月分の支給率をもって退職金を計算すべきである旨主張するが、右附表の規定を右原告の主張の如く解すべき理由はない。

そして、右退職金の支払日は、前掲甲第一号証によれば、退職金は退職の際に支給することとなっていることが認められるから、原告は、被告会社を退職した昭和五六年四月二四日に、右退職金の支払を請求し得たものというべきである。

五  以上のとおりとすると、原告の本訴請求は、退職金七七六万六六六六円とこれに対する支払日の翌日以降であることが明らかな昭和五六年五月一日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから 右の限度で認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言について同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 千川原則雄)

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